笑点の座布団運びと言ったら「山田くん」でおなじみの、元ずうとるびの山田隆夫さんですが、いつの間にか「山田たかお」と名前が平仮名になったのですね。
なんでも2014年4月から、芸名を笑点以外では「山田たかお」にしたのだそうです。
山田隆夫さんと言えば再婚していますが、元妻の吉川桂子さんと再婚をした恵子さん、ともに「けいこ」なんです。
そんな山田たかおさんが「徹子の部屋」(2018年10月29日放送)に出演しますが、まとめてみました。
スポンサドーリンク
山田たかお(山田隆夫)元妻吉川桂子と恵子の画像?
画像はコチラです
「対決!スーパーカークイズ」という番組で知り合った吉川桂子さんというアイドル歌手と1977年に結婚をしますが、これを機に、ずうとるびを脱退します!
なんでも山田さんは、ポップ系のバンドを目指していたのですが、他のメンバーは、ビートルズのようなロックバンドを目指していて、音楽の方向性があわなかったからだそうです。
このころのことを管理人は、子どもでしたが覚えています。
今で言ったら、りゅちぇるほどではないけれど、感じとしては近かったと思います。
結婚をした吉川桂子さんですが、確か外交官のお嬢さんだったと思いますけれど、とてもかわいかったです。
娘さんを二人授かりますが離婚をして、アメリカに渡ったとか。
離婚をして、落ち目になっちゃったかなと思っていたら、1984年10月7日の「笑点」から、松崎真さんに替わり、山田さんが座布団運びをすることになります。
この時も、管理人は覚えていますが、松崎真さんが好きだったので、落ち目になった山田さんに替わったときは、つまらなく思ったものです^^;
いつやめるかと思っていたのに、あれから30年以上も「笑点」に出演するなど、当時は思いもしませんでした!
その間に、別の恵子さんと再婚をし、息子1人娘1人を授かります。
こちらの恵子さんの画像は、公表されていないみたいです。
現在では、息子の太一さんがマネージャーをしているそうです。
山田たかお(山田隆夫)の自宅は?
山田さんは、落ち目になったと管理人は、勝手に思っていたのですが、山田さんは、子役のころから、ずいぶんと貯金をしていて、17歳で初めて家を購入します。
なんでも実家は、深川や木場の辺で材木の木工所を営んで、若い衆が20人くらいいました。
ところが山田さんが生まれたころ、詐欺にあって家や土地を盗られてしまったことで貧乏になってしまいました。
三郷にあった材木置き場の500坪も無くなってしまいます。
あまりに貧乏だったため、赤ちゃんのころの写真がなく、いつもお兄さんのお古を着て、靴は穴の開いたのを履いていました。
占いで不動産に向いているとあったので17歳で家を買ったそうですが、実家が詐欺で土地を盗られてしまったこともあり、土地のことを勉強したそうです。
棚ぼたというワケではないんですね。
山田たかお、桂歌丸さんのVTR見て号泣。楽屋では「山田さん」と呼ばれていた #テレ朝POSThttps://t.co/1UvQ9zrK1y
— テレ朝POST (@post_tvasahi) 2018年10月29日
現在では、横浜にある4階建ての自宅以外にも、都内に2棟の賃貸マンションを所有するほどになり「座布団御殿」とも言われるようになります。
月に賃貸収入だけで数百万円もあるとか。
最初は東京に住んでいましたが、区画整備により立ち退くことになり、横浜へ移る事にしました。
住所は、神奈川県横浜市都筑区南山田のようです。
グーグルマップで見たら、近くにちょっとした森がありますが、神社みたいです。
山田神社というところへ、毎日、お参りに行くそうです。
山田隆夫の子供は?
吉川桂子さんとの間には、娘さんを二人授かっており、再婚後は、息子1人娘1人を授かります。
4人のパパです!
お孫さんもいるかもしれませんね。
山田たかおのプロフィール

引用元:http://zb-fan.net/profile950.html
ヘアスタイルがスゴイですが、ジャクソン5を意識していたのだと思います。
本名:山田 隆夫
生年月日:1956年8月23日(62歳)
出身地:東京都江東区深川出身
歌手、作詞家、作曲家、落語家、プロボクサー(四回戦)で、元アイドル
血液型:A型
6人兄弟の末っ子として生まれて、山田さんが生まれたときは、家は落ちぶれてしまいましたが、お姉さんなどは踊りを習ったり、お兄さんは馬に乗って遊んでいました。
5代目鈴々舎馬風門下で鈴々舎鈴丸(れいれいしゃ すずまる)という高座名を持っています。
幼いころ、実家が詐欺に遭ってしまい全財産を失ってしまったそうです。
それ以来、両親がいつも暗い顔をしていたので、山田さんは落語で両親を心から笑わせたいと思うようになり、落語に興味を持ち始めます。
10歳の時、フジテレビの「ちびっこのどじまん」で優勝をすると、ステレオとインスタントラーメンを1か月分もらったそうです。

ところが、それを家に持って帰ったら両親が泣いて「お前、どこで盗んだの?」
山田さんが「違うよ、のど自慢で優勝してもらったんだ」と言って、メダルを見せると「お前は、そういうのが得意なんだねと、喜んでくれました」
それ以来、NHKからうちの番組に出ないかとか、花登 筺(はなと こばこ)さんにドラマに出ないかと誘われるようになったそうです。
1970年、日本テレビ「笑点」の「ちびっ子大喜利」コーナーにレギュラー出演します。

「ちびっ子大喜利」のコーナーで、座布団10枚獲得したら、その記念賞品としてレコードデビューがありました。
山田たかおさんは、みごと獲得することができ、1973年に、ずうとるびのメンバーとして歌手デビューします。
第26回NHK紅白歌合戦にも出場します。
その後日本大学豊山高等学校を卒業
「ずうとるび」の「オフィシャルサイト」が現在もあります!
江藤博利って、今で言ったら、スマップの中居君みたいな感じでした。
新井君の髪形が!
スポンサドーリンク
歌丸さんとのこと
歌丸さんとは「ちびっこ大喜利」のときからの知り合いで、47年お世話になりました。
楽屋では「山田くん」じゃなくて、ちゃんと「山田さん」と呼んでくれますが、本番になると「漂流してきた汚いワカメが、ごあいさつ」とか「おじさんのETが、ごあいさつ」と色々言われました。
座布団の担当は、それまで松崎真さんとか替わっていたのですが、歌丸師匠は50周年になるまで、いまのメンバーでやろうと言ってくれたこともあり続いているそうです。
山田さんは、すごく感謝しているそうです。
ちなみに笑点のギャラは、1回10万円くらいらしいですが、このまま行くと、90歳くらいまで現役でがんばりそう。
1982年当時46歳の歌丸師匠が「徹子の部屋」に出たときの映像で話をしていた内容が、
考えて話すよりも、ポッと浮かんだ話しをした方がウケる。
考えすぎちゃっちゃいけないような気がする。
若いころは、貧乏で、奥さんが内職をするだけでなく、歌丸さんもマッチ箱のレッテル貼りや、スカーフの端っこをかがり縫いをする仕事をしてお金をもらっていたことがあります。
あれはミシンではなく、手縫いでないとダメなんだとか。
(それでエルメスは高いのですね!)
1枚かがると、いくらかをもらうのです。
ところが、堪忍袋という落語をやるとき、袋を縫いながら言う話ですが、針を持ったことのない噺家がやると、針の持ち方が違うんじゃねーかと思うのですが、やっているとそういうのが出るんです。
師匠が「若いうち苦労しろ」でも、その苦労を早いうち笑い話にしちぇっていう。
苦労を知らない人間は、薄情に見える。歌丸さんは、教訓にしている。
歌丸さんが重体だと聞いて、山田さんは、これが最後と思って行ったそうです。
歌丸さんは昏睡状態で、酸素吸入して、ウーッ、ウーッと言っているので、もう会えなくなっちゃうと思って「歌丸師匠、山田隆夫です。47年間、ありがとうございます」
そしたら歌丸師匠が、急に目を開けて、山田さんの顔をにらみつけて「山田君、ありがとう。山田君、ありがとう」と2回言ってくれた。
それから山田さんは、ずっと泣いて、最後のお別れができた。
歌丸師匠のおかげで47年間、頑張ってきましたから。
一生懸命、芸能界のことを教えていただいて、感謝の気持ちでいる「その気持ちで座布団運びも変わらなくていいよ」と師匠は言ってくれたそうです。
失礼な言い方になってしまうかもしれないけれど、山田さんにとって「座布団運び」が芸になっていると思います。
始めは、正直、離婚して、落ち目になって、どうせすぐ辞めるだろうと、管理人はバカにしていました。
どの分野にでも言えますが、3年続くのは、全体の3割だったか、30年以上続くと、本物と言われます。
山田さんは、座布団運び、30年以上続いてるので、立派です。
でも、歌丸師匠がいなかったら続けられなかったかもしれません。
他の人も色々やってきたのですが、山田さんが歌丸師匠の所へ行ったとき、昏睡状態で、一番ダメだったときにも関わらず、そうやって言ってくれたのだそうです。
山田さんのお母さんが亡くなるときも、歌丸師匠と同じように、急に目を開けて「隆夫さん、ありがとう」と言ってくれたそうです。
それは、山田さんが色んなテレビに出てくれて、自分を笑わせてくれて幸せだった。
それに対して、山田さんも「僕を産んでくれて、ありがとう」それが最後の言葉でした。
まとめ
実家の家賃収入があるので、山田さんの息子さんは、別に働かなくてもいいんですよね。
ここまで芸能活動ができたのは、座布団運びが一つの芸じゃないけれど、そのおかげだと誰しも思っているでしょう。
最近のコメント