三船敏郎さんと言ったら、日本を代表する世界的な映画スターです。
1951年にヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞した「羅生門」や、1965年(昭和40年)、「赤ひげ」でも2度目のヴェネチア映画祭主演男優賞受賞して「世界のミフネ」と言われています。
そんな三船敏郎さんは、昔の俳優さんだからと言ってしまえば、それまでになってしまいますが、いわゆる内縁の妻がいました。
それが、後にタレントとなる三船美佳さんのお母さんになる喜多川美佳さんです。
いったい、どんな人なのでしょうか?
「徹子の部屋」(2018年11月16日放送)に出演されるのでまとめてみました。
ざっくり三船敏郎さんのプロフィールから
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三船敏郎のプロフィール
三船 敏郎
生年月日:1920年(大正9年)4月1日 – 1997年12月24日
出身地:中国・青島市
父の徳造と母センの長男として生まれます。
父徳造は、秋田県由利郡川内村小川(現・由利本荘市鳥海町小川)の漢方医の息子ですが、祖父との不仲や次男で実家を継げなかったこともあり、満州へ渡って貿易商や写真業を営みます。
ところが、事業に失敗したため三船が5歳の時に大連に移り住み、そこで「スター写真館」を開業。
母は新潟県の旗本の家系、次男の芳郎、長女の君子を授かります。
1934年(昭和9年)に大連中学校に入学しますが、父が病気で倒れ写真屋を手伝い、1938年(昭和13年)に卒業します。
1940年(昭和15年)、徴兵・甲種合格で兵役に就きますが、このことで両親との永遠の別れになります。
中国大陸で育ったことから、徴兵に際し死を覚悟しますが、父親の勧めで初めて日本(神戸)の土を踏むことになります。
写真の経験や知識があることから満洲国の陸軍第七航空隊に配属されますが、そこでのしごきが凄まじいものだったのですが、三船は、一発二発のビンタでは倒れないことから、よけいに殴られ、顔が変形するほどだったそうです。
そこで写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となった。
1940年(昭和15年)、三船は先輩兵である大山年治(東宝撮影所撮影部所属)から満期除隊になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやると誘われますが、戦況が逼迫し以後敗戦まで6年間を兵役に就くことになります。
1941年(昭和16年)、内地で、滋賀県八日市の八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され(炊事の責任者をします)
1943年(昭和18年)、同部隊に現役入隊した鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係となるのですが、鷺巣は三船の写真技術の高さを認め、円谷英二、大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいたほどです。
1945年(昭和20年)、特攻隊基地で終戦を迎え、父の生家である秋田県由利郡鳥海町小川の三船家に世話になり、毛布1枚と米をもらって上京します。
大山を頼りに、撮影助手の採用願いを出しますが、間違って俳優志願書に交じり面接に行くことになりますが、三船の態度に不合格になります。
ところが、会場に居合わせた女優の高峰秀子が、三船の存在感に胸騒ぎを感じ、黒澤明に三船のことを知らせます。
\高峰秀子まつり本日最終日/
さすがの猛暑で混雑しておりません!
★本日最終回7:30~『あらくれ』
男たちの間をするするとすり抜けて生きていく奇妙な女の流転の人生。桐野夏生の小説に出てきそうな気味の悪い女。阪本順治監督『顔』のようなところもある。正体のわからない女は魅力的! pic.twitter.com/5ozm5L2KGh— 神保町シアターのひと (@jinbocho123) 2017年7月14日
黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家とそれ以外の者が同じ一票ではおかしい」と抗議すると、山本が駄目だったら自分が責任をとると言って、形式的には補欠採用となり、思わぬ形で役者の世界に入ります。
1947年(昭和22年)に東宝ニューフェイス第1期生として入社し「銀嶺の果て」で映画デビューします。
流石、世界レベルの奇跡の風格と体躯。
黒澤さんは飾った人が嫌いだった。下品な人も嫌いだった。俳優になることが嫌だった三船敏郎さんが「男の仕事」として演じるという仕事をやったからこそクロサワに惚れられたのだろう。
#三船敏郎#銀嶺の果て#黒澤明 pic.twitter.com/hkFvW0Tbfc— 松永紗らら (@turning_to_blue) 2018年8月16日
翌年の「醉いどれ天使」から黒澤明との映画「羅生門」「七人の侍」「蜘蛛巣城」「用心棒」など15本に主演します。
その他にも、岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」や熊井啓監督「黒部の太陽」
海外では、メキシコの映画で「価値ある男」や、アメリカ映画の「グラン・プリ」、「太平洋の地獄」、アメリカのドラマ「将軍 SHOGUN」、フランス映画「レッド・サン」といった作品に出演。
今でこそ、海外へ進出は珍しくありませんが、三船さんが活躍されていた時は、存在感がまったく違っていたと思います。
まさしく国際的なスターとなり、英語圏では、The WolfやThe Shogunなどと呼ばれ、世界中の映画関係者に影響を与え、尊敬されます。
芸術選奨勲三等瑞宝章、紫綬褒章、川喜多賞、芸術文化勲章、ロサンゼルス市名誉市民、カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉学位。
三船は1950年(昭和25年)、東宝第一期ニューフェイスで同期だった女優の吉峰幸子と結婚し、同じ年に息子の三船史郎をもうけます。
『その人は女教師』公開時に見逃してずっと観たいと思っていた念願の映画をやっと。ここ十年くらいは名画座ではまったくかかってなかったのでは。当時人気を誇った『個人授業』の和製ルノー・ヴェルレーを三船敏郎の息子・三船史郎に託すリリカルでビターなフランス映画のような逸品。観れて良かった。 pic.twitter.com/Ejtgih0xOT
— 田旗 浩一 (@tsukimoto_natsu) 2019年1月27日
1970年(昭和45年)あたりまで夫婦関係は順調でしたが、1970年代に入ると夫婦関係は冷め切ったものとなり、三船の酒乱に悩まされた夫人により、三船は家から追い出されることになります。
ところが、本音は、三船との関係修復を望んでいたので、三船が離婚しようとするとこれを拒否し、死ぬまで判を押しませんでした。
結局、離婚裁判の間に三船は女優の喜多川美佳と交際を始め、1974年に来日したアメリカのフォード大統領を迎賓館に招いた歓迎晩餐会では喜多川美佳を妻として同伴して出席しています。
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喜多川美佳(三船美佳の母)血液型や経歴?
喜多川 美佳
生年月日:1948年10月28日
本名:大野 照代(おおの てるよ)
旧芸名:北川 美佳(きたがわ みか)
出身地:東京都
父親は生後4ヶ月で死去します。
3人兄妹(10歳上と9歳上の兄)
品川区立芳水小学校在学時よりバレリーナを目指します。
品川区立大崎中学校では陸上部に所属
帝京女子高等学校に進学後はダンス部に所属し、のちに主将を務めます。
1966年10月、高校3年生の時、先輩が内緒で「東宝ニューフェイス」試験に応募しますが、将来はバレリーナになるため女優になるつもりはなく二次試験をすっぽかします。
何故かその書類がCMモデル・オーディションに回ってしまい、度胸試しで受けたところ合格しますが、学校には内緒でCMタレントとして活動を始めます。
1967年9月にユナイト映画で募集したミス007に選ばれ、西ドイツへ招待されます。
その後北川美佳の芸名で、テレビドラマ 「平四郎危機一髪」に出演。
1969年、三船プロダクション製作の映画 「赤毛」に初出演した。
喜多川美佳(三船美佳の母)若い頃の画像は?
引用元:https://www.pinterest.jp/pin/492933121698502285/?lp=true
三船美佳さんになんとなく似ていますね。
アイヌ集落の長の娘シラリカ(北川美佳)
健気でちょっとお転婆で勝気な女の子って感じ。いちいち新九郎にヤキモチ焼くのが可愛いw命を捧げてもいいくらい新九郎のことを慕ってる。#お庭番 #鎖 pic.twitter.com/xQmyT2ESPR— 燦々 (@sansanx) 2018年2月21日
必殺仕事人「武器なしであの花魁を殺れるのか?」を観ていました。中村主水の狡猾さは言うに及ばず見せ場は左門のシルエットのみの殺陣と秀の必殺。陰険な悪女花魁”あづまぢ太夫”演ずるは 喜多川美佳(三船美佳の母)見応え充分,圧巻でした。 pic.twitter.com/aMIM20MMvM
— ピユ〈☆-v-〉 (@piyuruki_insane) 2016年3月25日
喜多川美佳(三船美佳の母)徹子の部屋三船敏郎!
「徹子の部屋」に出演したときの話しをざっくり、まとめます。
喜多川美佳さんと三船敏郎さんは、年の差が28歳差です。
そんな風なので、喜多川さんが電話をするとき、「もしもし」ではなく「しもしも」と言っていたら、三船敏郎さんに「もしもしと言え」と言われ、ジェネレーションギャップを感じたとか。
28歳も年が離れているので、少しのことでは、三船敏郎さんは、それ以上怒る気にはならなかったと思います。
三船美佳さんが生まれたとき、すぐに三船敏郎さんが、「美佳だ」と言って、母の喜多川美佳さんと同じ名前になりますが、よほど「美佳」という名前が好きだったのですね。
三船敏郎さんは、海外の仕事が多く、通訳を通さず直接話したかったことから、三船美佳さんを横浜のインターナショナルスクールに入れますが、東京から通っていたので、通学時間が長く、途中、キャビアを買っておやつに食べていたそうです。
三船美佳さんは、三船敏郎さんのおかげで、子供のころ、一生分の贅沢をさせてもらったので、今は倹約生活をしています。
母の喜多川美佳さんは、娘の三船美佳さんが芸能活動を始めたころ、自分も芸能界以外のところで働こうと、三船美佳さんの知り合いの下北沢にあるバイク屋さんで、50歳すぎて、時給880円のバイトを始めます。
ところが、ランチに「今日は、どこどこのステーキ食べに行こう」と思って行ったら、店長に「時給880円なのに、1500円のランチなんて」と怒られ、そこで世間を知ったそうです。
三船美佳さんは、サーフィンにはまっていて、今いいのは、和歌山の磯ノ浦のカイザンスでお世話になっています。
まとめ
三船敏郎声さんは、声が大きいなど、生まれ持ったものもあったと思いますが、軍隊で鍛えられているので、並みの根性じゃないと思います。
高峰秀子さんや黒澤明さんのエピソードを知ると、人を魅了する何かがあったんでしょうね。
天性の存在感があったんだなと思います。
そんな人に愛された喜多川美佳さんと三船美佳さんの今後の人生が、どうなるのか生暖かく見ていきたいです。
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