森光子さんがお亡くなりになられて、もう7年になるんですね。
カラッとしたお母さん役が印象的でしたが、ドラマとは打って変わって奥さま番組の「3時のあなた」では、いつもお上品でした。
女優は、いろんな顔を持つから女優なのかもしれませんが、萩本欽一さんの番組「欽ドン」では、不良の主婦を演じて、違ったお笑いを見せてくれました。
そんな森さんですが、2回結婚されていたのですね。
気になったので、まとめました。
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森光子のプロフィール
#今日は何の日
若い頃の森光子。この方は見た感じが晩年になってもあんまり変わらなかったですね。
11月10日は森光子さんのご命日。 pic.twitter.com/tb0IirDoMh— 怪音頭cheer🍧 (@_30776506271) 2018年11月10日
本名:村上 美津(むらかみ みつ)
生年月日:1920年(大正9年)5月9日
没年月日:2012年11月10日(92歳没)
京都府の割烹旅館「國の家」の女将・艶の長女として生まれますが、もとは祇園の芸妓さんで、父親は紡績会社社長の御曹司でした。
父が、学生時代に母を見初めますが、家族の反対により結婚がかなわず、森さんはいわゆる私生児です。
「國の家」は後に倒産し、両親も森さんが13歳のときに肺結核で相次いで亡くなってしまったことから、入学した京都府立第一高等女学校(京都一女、現・京都府立鴨沂高等学校)を1学期で中退することになります。
宝塚や松竹歌劇に憧れ、従兄である大スター嵐寛寿郎を頼って、1935年「春霞八百八町」(マキノ正博監督)で映画デビューします。
徹子の部屋間もなく1万回放送という事で2人にどなたでも見たい回のVTRを放送!という事で大竹さんは鞍馬天狗で御馴染み、嵐寛寿郎さんをリクエスト。寛寿郎さんはとても面白い人で徹子終始爆笑。鞍馬天狗は長い顔が丁度隠れたから良かったんだって pic.twitter.com/luar2f9GLw
— 池乃こいし (@369doughnut) 2015年5月26日
嵐寛寿郎さんの祖母は、料理旅館「葉村屋」を営んでいたので、森さんとはおそらく母方のいとこのようです。
嵐寛寿郎プロ解散後も新興キネマに移り、「剣豪荒木又右衛門」(1938年)や「元禄女大名」(1939年)など、多くの映画に娘役で出演しました。
戦時中は、製作本数の減った映画界に不安を抱き、1941年より歌手を目指し、外地慰問に参加し、戦後は進駐軍キャンプの舞台にも立ちます。
戦後は関西を拠点に歌手として活躍しますが、1949年、肺結核を患い2年余の療養生活を送りますが、横山エンタツ主演のラジオ番組「エンタツの迷探偵」で復帰します。
テレビ放送が始まると、中田ダイマル・ラケット、藤田まことと共演した「びっくり捕物帖」に出演します。
森光子さんも、藤田さんが若手コメディアンだった頃の「びっくり捕物帖」では、主役のダイラケが演じる目明かしの上司の天満与力だった藤田まことさんの妹役でした。でも、すぐに人気で追い抜かれてしまって、藤田さんは苦渋を舐められたそうです。 pic.twitter.com/e2AaUzBfA7
— 都の商売人 (@syoubaininn) 2018年11月23日
次々とヒット番組に出演し、一躍スターとなります。
一方舞台では、1958年、劇作家・菊田一夫に見出され、「花のれん」「がめつい奴」など大作に出演します。
1960年「がしんたれ」で初の林芙美子役を演じ、評判になりますが、その翌年、「放浪記」初演。この舞台は、その後の森さんにとって芸能人生のライフワークとなり、2009年に89歳で2000回公演を達成するロングラン公演となります。
浜木綿子、故森光子さん「放浪記」代役固辞の秘話 https://t.co/dK6iYkkgJn
— ニッカンエンタメ・プレミアム (@nikkan_entame) 2018年11月18日
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森光子は結婚2回でアメリカ人と?顔画像や子供は?
戦後、ジャズ歌手として進駐軍キャンプへの巡業も行っていた27歳の時、1947年(昭和22年)森さんを見初めた日系アメリカ人2世の米軍属リチャード・ウエムラからプロポーズを受け婚約します。
ウエムラさんの画像は、さすがに出てきませんでした^^*
ところが、森さんは芸能界に未練があり、決まっていた渡米をキャンセルして、日本にとどまりました。
ウエムラは結局婚姻関係を結んでから1週間後にハワイに帰り、短い結婚生活は終わります。
1958年のフランキー堺さんのドラマ「私は貝になりたい」の演出をし芸術祭文部大臣賞(現在の大賞)を受賞した岡本愛彦と、1959年(昭和34年)結婚をします。
引用元:http://looksroom.blog.jp/archives/cat_378969.html?p=6
TBSチャンネル2の橋本忍追悼企画で明日放送『私は貝になりたい』(58/10/31)。同じフランキー堺主演で映画化されたけど、元はTV版。佐分利信、河野秋武、坂本武、南原宏治、大森義夫、原保美、清村耕次、小松方正、内藤武敏、佐野浅夫、恩田清二郎、十朱久雄、垂水悟郎、田中明夫らいい役者がたくさん。 pic.twitter.com/hKCUAeN1w5
— 濱田研吾 (@hamabin1) 2018年9月8日
ちなみに、このドラマは大きな反響を呼び、テレビ局のTBSで“ドラマのTBS”と言われる礎となった作品として、日本のテレビ史に語り継がれています。
岡本が5歳下だったこともあり、森さん本人は3歳サバを読んで36歳ということにしていました。
「放浪記」が始まる2年前、39歳で結婚しますが、わき役ばかりでした。
ところが41歳の時、「放浪記」の主演に抜擢され、その成功で仕事に追われる毎日でした。
夫婦は、すれ違い、女優と妻の両立は限界でした。
ある時、夫が帰宅して、ただいまと声をかけても、気づかないくらい仕事に集中する森さんに、夫は「もうやめてくれ」と頼みます。
そして「仕事に殺される。僕と仕事、どっちをとるか」と言われますが、森さんは仕事を取りました。
13歳で、両親を亡くし、生きるために女優を選び、41歳でようやくつかんだ主演の座です。
森さんは、「別れないでください」と泣いて頼んだそうです。
森さんの中で、はっきりしていることは、もう2度と結婚しない。
役者ひとすじに生きていくこと。
俳優という退職金も、失業保険もない職業のみじめさを、私は、自分自身の体に刻んでいるのです。
だから、お仕事を断るなんて、贅沢なことはできない。
わずか4年ほどで離婚。
お子さんは、いらっしゃいません。
森光子東山紀之と関係?
森光子さんというと、少年隊の東山さんとの関係が気になりますが、いまでこそ、芸能人は、一般人と食事などしてSNSにアップしたり、ふつうにあるようです。
ところが、少なくとも少年隊が人気絶頂のアイドルのころ、一般人と食事など、することはなかったそうです。
それくらい、当時は、一般人と芸能人の境というか、世界が違っていたらしいです。
そんな中、1986年、少年隊が紅白歌合戦に出場した際、森さんが「ファンです」と声をかけてから、親しくするようになったそうです。
この時、東山さん、ちょうど20歳で、森さんは66歳!
森さんの中では、東山さんのことは「友だち以上、恋人未満」と思っていたようです。
それくらい、思うのは勝手だと思うので、自由にしてください。
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