竹久みち!三越事件とは?岡田茂の愛人?若い頃画像やドラマも!プロフ

竹久みち!三越事件とは?岡田茂の愛人?若い頃画像やドラマも!プロフ

芸能界で“1番”の美術コレクターであるデヴィ夫人が、今だから話せる話として、1982年に世間を騒がせた、日本橋三越での「三越事件」について「1番だけが知っている」(2019年1月21日)で放送されます。

気になったので、まとめました。

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三越事件とは?ドラマも!

東京・日本橋三越と言えば、江戸時代から続く老舗百貨店ですが、そこで開催された古代ペルシア秘宝展で出展されていた作品のほとんどががんさくだったことが判明し、連日ワイドショーをにぎわせることになったのです。

どうして誰もが知る一流百貨店で、こんな事件が起こったのか?実は、その裏には、岡田天皇と呼ばれる社長の独裁体制と、百貨店を牛耳った愛人の竹久みちの存在がありました。

当時、三越は大丸に負けていました。利益率の高い美術品を売るように岡田は強く言っていました。

1982年(昭和57年)8月、創業310年を記念した!「古代ペルシャ秘宝展」で、ある彫金師により自分が作ったリュトン杯が展示されていると判明し偽物騒ぎが発覚します。

彫金師は、古美術商に頼まれ55万円で作ったリュトン杯が、展示では1憶6000万円で売られていたのです。

他にも、全部で彫金師の作った作品が6点展示されていたのです。

総額21億円相当で、一部は売約済みになっていました。

実は、あの松本清張さんも、この展示品が贋作であることを見破っていたのです。

松本清張さんは、以前取材で贋作を見極めるには、贋作はわざと古く見せる薬品が塗られているため、なめるとピリッとくるという話を覚えていたのです。

百貨店側では、いくら贋作と疑われても展示を止めなかったのは、岡田社長のワンマンによるものでねじ伏せられてしまったのです。

しかし、1982年8月29日、「ペルシア展」が残り2日となった日、「秘宝47点の大半がニセ」と新聞に掲載されて、世間に知れ渡ることになります。

三越はすぐに記者会見を開き、製作者も専門家も贋作であることを認めます。

ところがペルシア秘宝展を企画した美術商は、アメリカンアカデミーの鑑定書をつけた作品も持っている。

それ以外のものも、欧米のしかるべく権威のある鑑定機関にゆだね、三越に提出する自信があるので本物だと主張しますが、入手ルートは企業秘密だとします。

会見から2日後、隠していた入手ルートが明らかになります。

古代ペルシア秘宝展のほとんどが美術商が、イラン人のイライ・サカイから購入していたことが判明。

イライ・サカイEly Sakhaiは「銀座の怪人」と言われていて、ふんだんに湯水のようにお金を使っていたそうです。

アメリカ・ニューヨークで西洋美術を取り扱う美術商をしていたのですが、頻繁に日本へ来て取引をしていた人です。(管理人:不動産で資産を得てギャラリーを始めた。当時30代だったらしい!!)

彫金師により作品を得た美術商が、古く見せるように加工したものをイライ・サカイに流れると、イライ・サカイは、ペルシア秘宝展の企画者に「父は発掘の専門家で、イランから独自のルートで仕入れた」と偽ります。3億円で売りつけていたのです。

ところがニューヨークにいるイライ・サカイに取材すると「デパートが本物と勘違いした」と主張します。

さらに「三越の女帝」と呼ばれた愛人の竹久みちへの不当な利益供与も明るみに出ました。こうした中、水面下では三井銀行の小山五郎相談役などの三井グループの幹部や三越の反岡田派を中心とした「岡田おろし」の準備が進められていました。

同年9月22日には取締役会が行われますが、その途中で岡田は腹心の専務であった、杉田忠義に議長を交代します。そこで杉田は秘密裏に計画していた岡田解任決議案を発議、16対0で可決成立し、その場で岡田は非常勤取締役に降格になりますが、このとき岡田が発したとされる言葉「なぜだ!」は流行語に!

10月に竹久が特別背任でお縄、10月29日に岡田自身もお縄になります。

この際に取締役を辞任し、これ以後三越とは株主の一人としてのつながりだけになります。

1987年(昭和62年)に東京地裁で懲役3年6ヶ月の実刑判決、控訴審の東京高裁で1993年(平成5年)に懲役3年の実刑判決が出され、上告しますが係争中の1995年(平成7年)7月20日、腎不全のため死去。享年80。

これを基にしたドラマが、2006年3月4日放送された「家政婦は見た!」第24作「美貌の女帝とデパートの帝王、昼と夜二つの顔の秘密!愛されて…憎まれて、裏切られてなぜだ!?」

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文庫 世紀の贋作画商: 「銀座の怪人」と三越事件、松本清張、そしてFBI (草思社文庫)

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岡田茂の経歴とプロフィール

岡田 茂(おかだ しげる)

生年月日:1914年(大正3年)8月3日 ~1995年(平成7年)7月20日

出身地:京都府

実業家、三越社長。

1938年、慶應義塾大学文学部卒業

1938年(昭和13年)に三越に入社します。

宣伝部長を経て、銀座店店長になります。

店長時代にはヤングファッションを中心とする営業政策や日本マクドナルドのテナント入りで成績を上げます。これにより、岡田は当時の三越社長・松田伊三雄の高評を得ますが、社内での公私混同が問題とされるようにもなっていました。

老舗百貨店・三越を率いて10年に渡り社長に君臨し「流通界の革命児」と呼ばれます。

1982年(昭和57年)の「三越事件」で解任され、後に特別背任で有罪へと、明暗二様を生きました。

1970年(昭和45年)、専務時代にニッポン放送の高崎一郎と共に、日本初のテレビショッピング番組とも言われる「東京ホームジョッキー」を立ち上げています。

1972年(昭和47年)11月、松田の後任の社長に就任。

社長に就任すると、まず行ったのが、三越創業300年記念式典を日本武道館で行います。5億円の予算で、招待客は1万3000人!

社長としては決断力が高く指示が非常に早かったのですが、社内では「岡田天皇」と呼ばれるほどのワンマン体制を築き、意に沿わぬ人物を次々と粛清します。

岡田のライバルとされていた坂倉芳明を常務の座から追い、坂倉は堤清二の招きで西武百貨店副社長となった後、社長となります(後に復帰して三越社長)。

竹久みちの経歴若い頃画像

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竹久 みち(たけひさ みち)

本名:小島 美知子

生年月日:1930年(昭和5年)~ 2009年(平成21年)7月24日

職業:服飾デザイナー

ペンネームである「竹久」は竹久夢二にあやかって名づけます。

出身学校:旧制共立女子専門学校生活科(現:共立女子大学)卒業

1957年(昭和32年)文化学院デザイン科を卒業

学生結婚をして一児をもうけますが、義理の父とそりがあわず離婚をしてシングルマザーになります。

文化学院在学中から、銀座で「ヌーベル・アクセサリー研究所」を主宰し、上野松坂屋、銀座松坂屋などと取引をしていました。

テレビなどにも出演し、アクセサリーについて語っていました。

1960年(昭和35年)からは、六本木で「竹久みちアクセサリーデザインスクール」として、国内初のアクセサリーデザイナーの養成を始めます。これは、のちに「竹久みちアクセサリー学院」と改称しますが、1983年(昭和58年)に閉鎖しています。

1963年、三越の宣伝部長(当時)の岡田茂との知り合います。岡田が三越の社長に就任した1972年以降、竹久の会社「オリエント交易」は三越の大口納入業者となります。

竹久は、これにより多額の取引手数料を手にしたほか、三越の社内人事にも介入するようになり、竹久は「三越の女帝」と呼ばれます。

しかし1982年に「三越事件」によって岡田が社長を解任され、竹久は三越社内への影響力を失いますが、その後クィーンズオーキッド株式会社を設立し、代官山の自社ビルでアートフラワーの販売を続けます。

岡田が社長を解任された翌月、三越に約18億円の損害を与えたとして岡田とともにお縄にな、特別背任罪と所得税法違反の容疑で起訴されます。最高裁判所まで争いますが、1997年10月に最高裁で上告が棄却され、懲役2年6月および罰金6000万円の実刑判決が確定し、栃木刑務所に収監された。

デヴィ夫人は、出所してから数年後、竹久みちと再会していますが、昔のような派手さはなくなったけれどキレイでした。

汚名が残ってしまったまま亡くなるのは耐えられない「もう一度竹久みちを作りたい」と、出所後、新たなブランドを立ち上げ、77歳まで会社経営を続けます。

岡田の死から14年後の2009年(平成21年)7月24日に死去します。

2009年(平成21年)7月24日午後1時頃に、東京都内の病院にて亡くなります。79歳没。

晩年の2008年(平成20年)12月に動脈瘤を患っていました。

まとめ

管理人の中では、竹久みちと榎本三恵子さんと細木数子が、ごっちゃになっています。

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