1970年代というと、ピンクレディーが大人気でしたが、同じくらいの頃、女子プロレスのマキ上田とジャッキー佐藤さんの「ビューティペア」も人気があって面白かったです。
その、ジャッキー佐藤さんって、1999年8月、41歳の若さでお亡くなりになられているんですよね。
ジャッキー佐藤さんと、全日本女子プロレスの後輩ナンシー久美さんとは私生活でも、大変仲が良かったそうです。
そんなナンシー久美さんについて、まとめました。
スポンサドーリンク
ナンシー久美の経歴とプロフィール
ナンシー久美
本名:金子 久美子(かねこ くみこ)
生年月日:1960年12月30日
出身地:神奈川県横浜市
血液型:B型
元女子プロレスラー
身長:165cm
1976年5月、いわゆる昭和51年組として、後楽園ホールにて全日本女子プロレスデビューし、ビクトリア富士美をパートナーとした「ゴールデン・ペア」として、第68代WWWA世界タッグ王座を獲得します。
その後も「レッド・フェニックス」のリーダーや「アマゾネス軍団」として活躍。
スタイルやルックスの良さは、他の女子プロレスラーの中では群を抜いていました。
1977年、シングルレコード「夢見るナンシー」を発表
1979年10月17日、川崎球場大会にてファビュラス・ムーラが持つNWA王座に挑戦しますが、試合終盤のレフェリーに対する暴行で反則負けとなります。
おっと、こんなところで叶姉妹のごとく「ファビュラス」が出てくるなんて!
1983年1月4日、後楽園ホール大会にて引退試合と引退式を行い全日本女子プロレスを引退します。
1986年ジャパン女子プロレスに参加し現役復帰。ジャッキー佐藤、風間ルミ、神取しのぶと四天王として活躍します。
1987年7月27日、大田区体育館での試合を最後に現役を引退します。
1993年清心館入門し、以降、現在は清心館空手道総本部付指導員(弐段)として活躍しています。
東京と神奈川を中心にいくつか道場があります。
入会金4000円
月 謝4500円(週1回) フリーコース6000円
家族割引3人目から2000円引き
2000年代では、ブル中野が経営する飲食店「中野のぶるちゃん」にゲストとして招かれたりするなど、元気な姿を見せています。
スポンサドーリンク
ナンシー久美の店!
かつて1980年ごろでしょうか、ナンシー久美さんのお母さんが、横浜駅西口で「ナンシー久美の店」というスナックを経営していたそうです。
ナンシー久美結婚して子供?
女子プロレスラーというと、なかなか結婚が難しいらしいですが、マッハ文朱さんなど、結婚されてキレイになっている方もいます。
ナンシー久美さんは、どうなのでしょう?
特に、結婚をしているような情報は出てきません。
ナンシー久美の今や現在?
わりと最近のものですが、クールな感じは相変わらずですね。
一説にはジャッキー佐藤さんはレズビアンだったと言われていました。
とは言え、ナンシー久美さんと、そういう関係だったかどうかはわかりません。
以下は、「爆報フライデー」(2019年4月5日放送より)
プロレスを引退すると、母親の経営する飲食店で働いていました。
そんなある日、突如お腹にじくじく痛みが走ります。
プロレスをやってる時も、多少頭やお腹が痛くても、我慢して試合に出ないといけない。
痛くても大丈夫でしょうと高を括っていました。
ところが、3が月経っても痛みはひどくなるばかりで病院へ行くと、卵巣癌になっていました。
卵巣にがん細胞が発生し、下腹部へのしこりや圧迫感が現れる症状が出ます。
ナンシーは、発見が遅れたため卵巣は肥大化し、手術で摘出するしかありませんでした。
手術をしてわかったのが、通常、日本人女性の卵巣の重さの平均は10gですが、痛み放置していたため、ナンシーの卵巣は、取り出したら2.5kg ありました。
幸いにも卵巣手術は無事に成功します。
しかし抗がん剤治療の恐怖が待ち受けていました。
繰り返す嘔吐、抜け落ちる髪、体中に走る痛みなど、抗がん剤の副作用による苦痛によって治療を諦める人も少なくありません。
そんな恐怖をジャッキー佐藤が救ってくれたのです。
同じ団体の1年年上の先輩レスラー、ジャッキー佐藤は、ナンシーにとっては、声をかけることすら恐れ多い、雲の上の存在の人でした。
ジャッキー佐藤は、ナンシーが入院したと聞いて、病院へお見舞いに来てくれたのです。
しかもジャッキー佐藤は、ナンシーを励ますために、病室に百合の花を飾ってくれました。
ナンシーは「早く元気になって、ご飯に行きたい。」そんな思いがありました。
これを機に、ナンシーは驚くべき回復をします。
抗がん剤作用の副作用に患者の苦しむ中、ナンシーは抗がん剤の副作用が出ず、3クールの治療予定は、2クールで終了します。
無事に退院となり、癌を克服します。
こうして、ジャッキー佐藤と絆が深まった二人は、以来親交を深めていきました。
ところが1999年、突然の知らせが来ます。
今度はナンシーを支えたジャッキー佐藤が、病に侵されていました。
病名は胃がんでした。
そして今度は、ナンシーが看病する側になります。
その日からナンシーは、ジャッキーを献身的に看病します。
食事のケアやマッサージ、できることは何でもしました。
ナンシーは家に帰らず、病室に戻る生活を1週間します。
ジャッキー佐藤とベッドを並べて寄り添います。
生活の全てを最愛の先輩へ捧げますが、ジャッキー佐藤の体は日に日に悪化してしまいます。
ナンシーは奇跡を信じ、あるものを用意します。
それはナンシーが入院した時、貰った百合の花。
ジャッキー佐藤が一番好きだった百合で、花言葉は”威厳”です。
強くてかっこいい女子プロレスラー、ジャッキー佐藤を象徴するような言葉でした。
しかし入院から3ヶ月ジャッキー佐藤は危篤状態となり、そして1999年8月9日、ジャッキー佐藤は「ナンシーありがとう。幸せになって」と言葉を残し、ナンシーに看取られ亡くなります。
ジャッキー佐藤は、ナンシーに大切なものを残してくれます。
ジャッキー佐藤から、ある人を紹介され、そこからナンシーの第二の人生が始まります。
その人物は、池田有紀子・・・職場の同僚で、大事なパートナー
もしかして、やっぱり?レズビアンだった?
ネット上でも、「レズ」と散見
ジャッキー佐藤の経歴とプロフィール
本名:佐藤 尚子
身長:173cm
生年月日:1957年10月30日~1999年8月9日(41歳没)
出身地:神奈川県横浜市港南区
スポーツ歴:バスケットボール
デビュー:1975年4月27日
引退:1988年3月20日
川崎市立桜本小学校在校時から長身で、横浜市立浜中学校在学中はバスケットボール部で活躍します。
1975年3月、神奈川県立商工高等学校を2年で中退し、全日本女子プロレスに入門します。
1975年4月27日、マキ上田戦でデビューします。
1976年2月24日にマキとビューティ・ペアを結成しWWWA世界タッグ王座を獲得しました。ビューティ・ペアとして「かけめぐる青春」「真赤な青春」「青春にバラはいらない」などの曲が大ヒットします。
当時のビューティ・ペア人気は凄まじく、試合前のリングで歌を披露する際は、女の子の声援と共に、リングに紙テープや紙吹雪がいっぱいになっていました!
ピンクレディーのかわいさとは違うんです。
どちらかと言えば、宝塚のノリじゃないかな。
最近のコメント