内田裕也さんほど、危険と言われつつも、これほど愛された人も珍しいと思います。
萩原健一さんも危ない人でしたが、数々の映画や歌をヒットさせてきました。
内田裕也さんは、樹木希林さん曰く「ヒット曲のないロックンローラー」としましたが、1966(昭和41)年に行われたザ・ビートルズの来日公演時に、前座を務めています。
また、あの沢田研二さんを発掘したことでも知られています。
樹木希林さんは、人生の最期には内田裕也さんが歌う「朝日のあたる家」を聴いて逝(い)きたいと言っていたそうです。
この歌は、「内田裕也さんほどの、どうしようもない人間だから歌える」と語っていました。
それでも40年もの長きにわたり別居こそすれ、別れることを選びませんでした。
大方の人は、そのことが不思議でならないと思います。
生まれ持った業の関係で、別れる縁の人もいると思いますが、別れないからこそ価値のあることもあると思うので、樹木希林さんも、そんな風に思っていたのかわかりませんが、昔気質の人ではあったと思います。
そんな、はたから見たら到底理解しがたい両親のもとに生を受けた、一人娘の内田也哉子さんが、4月3日に営まれた内田裕也さん(享年79)のお別れの会「内田裕也 Rock’n Roll葬」での謝辞が大きな話題となっています。
スポンサドーリンク
内田也哉子の弔辞全文や学歴やエッセイもスゴイ
以下全文
私は正直、父をあまりよく知りません。
わかり得ないという言葉の方が、正確かもしれません。
けれどそれは、ここまで共に過ごした時間の合計が、数週間にも満たないから、というだけではなく、生前母が口にしたように、こんなに分かりにくくて、こんなに分かりやすい人はいない。
世の中の矛盾を全て表しているのが、内田裕也ということが根本にあるように思います。
私の知りうる裕也は、いつ噴火するか分からない火山であり、それと同時に溶岩の間で物ともせずに咲いた野花のように、すがすがしく無垢(むく)な存在でもありました。
率直に言えば、父が息を引き取り冷たくなり、棺に入れられ、熱い炎で焼かれ、ひからびた骨と化してもなお、私の心は、涙でにじむことさえ戸惑っていました。
きっと実感のない父と娘の物語が、始まりにも気づかないうちに幕を閉じたからでしょう。
けれども今日、この瞬間、目の前に広がるこの光景は、私にとっては単なるセレモニーではありません。
裕也を見届けようと集まられた、おひとりおひとりが持つ、父との交感の真実が、目に見えぬ巨大な気配と化し、この会場を埋め尽くし、ほとばしっています。
父親という概念には、到底おさまりきれなかった内田裕也という人間が、叫び、交わり、かみつき、歓喜し、転び、沈黙し、また転がり続けた震動を、皆さんは確かに感じとっていた。
これ以上、お前は何が知りたいんだ。きっと、父はそう言うでしょう。
そして自問します。
私が父から教わったことは、何だったのか。
それは多分、大げさに言えば、生きとし生けるものへの畏敬の念かもしれません。
彼は破天荒で、時に手に負えない人だったけど、ズルい奴ではなかったこと。
地位も名誉もないけれど、どんな嵐の中でも駆けつけてくれる友だけはいる。
これ以上、生きる上で何を望むんだ。そう聞こえています。
母は晩年、自分は妻として名ばかりで、夫に何もしてこなかったと申し訳なさそうにつぶやくことがありました。
「こんな自分に捕まっちゃったばかりに」と遠い目をして言うのです。
そして、半世紀近い婚姻関係の中、おりおりに入れ替わる父の恋人たちに、あらゆる形で感謝をしてきました。
私はそんなきれい事を言う母が嫌いでしたが、彼女はとんでもなく本気でした。
まるで、はなから夫は自分のもの、という概念がなかったかのように。
もちろん人は生まれ持って、誰のものではなく個人です。
れっきとした、世間の道理は承知していても、何かの縁で出会い、夫婦の取り決めを交わしただけで、互いの一切合切の責任を取り合うというのも、どこか腑(ふ)に落ちません。けれでも、真実は母がそのあり方を自由意思で選んでいたのです。
そして父も、1人の女性にとらわれず心身共に自由な独立を選んだのです。
2人を取り巻く周囲に、これまで多大な迷惑をかけたことを謝罪しつつ、今さらですが、このある種のカオスを私は受け入れることにしました。
まるで蜃気楼(しんきろう)のように、でも確かに存在した2人。
私という2人の証がここに立ち、また2人の遺伝子は次の時代へと流転していく。この自然の摂理に包まれたカオスも、なかなかおもしろいものです。
79年という長い間、父が本当にお世話になりました。最後は、彼らしく送りたいと思います。
Fuckin’ Yuya Uchida,
don’t rest in peace
just Rock’nRoll!!
スポンサドーリンク
内田也哉子の謝辞の英語の意味は?
Fuckin’ Yuya Uchida,
don’t rest in peace
just Rock’nRoll!!
内田裕也のくそったれ!
安らかに眠るな
ジャストロックンロール!!
内田也哉子の学歴やエッセイもスゴイ
内田 也哉子(うちだ ややこ)
生年月日:1976年2月11日
出身地:東京都
1995年に、19歳で本木雅弘と結婚
1997年に長男・雅樂(うた)、1999年に長女・伽羅(きゃら)、2010年に次男・玄兎(げんと)を出産します。
内田也哉子さんは、都内のインターナショナルスクールに通っていたそうです。
樹木希林さんの自宅は代官山なので、近いところと言えば、広尾にある、西町インターナショナルスクールか、目黒にあるアオバ・ジャパン・インターナショナルスクールの辺でしょうか。
その間に、9歳の時、ニューヨークに1年間、ホームステイをしていました。
高校2年生の時に、スイス・ジュネーブのインターナショナルスクールに留学しています。
樹木希林さんって、若い頃は老け役で、地味な感じなのかと思いきや、内田裕也さんと結婚するくらいなので、独特の美意識があったらしく、車も当時珍しいジャガーやボルボなどを乗っていたそうです。
子どもの教育にも、樹木希林さんなりの哲学で、インターナショナルスクールに通わせたのかもしれません。
![]() |

![]() |
|

まとめ
人の弔辞を聞いて、涙するとは思ってもいませんでした。
なれ合いではない、普通とは違う親子関係ですが、「生きとし生けるものへの畏敬の念」を教わったと言います。
おそらく、大方の人が樹木希林さんと内田裕也さんとの関係を理解できないのは、この「生きとし生けるものへの畏敬の念」が欠けてしまっているからではと思います。
父のキレイごととは言えない部分を、沢山見聞きしてきたと思います。
そんな父に対しての、母の思いへの反発や嫌悪感のようなものもあったとは言え、それでも肉親として「生きとし生けるものへの畏敬の念」があったからこそ、つながってこられたのではと思います。
この内田裕也さんと樹木希林さん、内田也哉子さん親子は、前世、インディアンだったのではと勝手に思っています。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。
最近のコメント