北の富士勝昭の嫁や家族は?離婚して孫?体調不良の原因と若い頃画像

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千代の富士や、輪島と言った、相撲界に華のあったころの力士がなくなってしまい、ほんとうに淋しいです。

昔は、もっとお相撲さんは、親しまれていたと思うのですけれど。

輪島さんの葬儀には、相撲界から離れたとは言え500人もの人が集まったとのことで、波乱な人生でしたが、愛されていたんだなと思います。

そんな輪島さんに、北の富士勝昭さんは、輪島さんと現役時代に対戦して通算7勝5敗と勝ち越しましたが、輪島さんの代名詞の「黄金の左」の強さはもちろん、「右からのおっつけが効いた。あれは素晴らしかった。同じ左四つでこっちが十分になっても相手はもっと十分だった。足腰も強かった」と当時を振り返っています。

そんな北の富士さんについて、まとめました。

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北の富士勝昭のプロフィール

北の富士 勝昭(きたのふじ かつあき)

本名:竹澤 勝昭(たけざわ かつあき)

生年月日:1942年3月28日

出身地:北海道旭川市(出生は網走郡美幌町)

第52代横綱。

得意技は突っ張り、左四つ、寄り、上手投げ、外掛け

身長:185cm
体重:135kg
BMI:39.44
所属部屋:出羽海部屋→九重部屋

6歳の時に留萌市へ転居

留萌市立留萌小学校へ入学すると、当時北海道で最強であった軟式野球チーム「萌友会」に入団し、主力投手として活躍します。

留萌市立港南中学校に入ると軟式野球の投手で4番を務めるなど、チームの最主力選手として活躍するのですが、父が事業に失敗し、3回に渡って夜逃げを経験したそうで、そのことが理由なのか、旭川市立光陽中学校に転校します。

1954年のある日、故郷・留萌で大相撲の北海道巡業に家族で見に行ったところ、恵まれた体格をした北の富士勝昭を見つけた横綱の千代の山から「どうだ、相撲をやって、東京見物をしてみないか」と声をかけられ、相撲に興味を持つようになります。

その後も軟式野球を続けていたが、現役の横綱から声をかけられたことが忘れられず、いくつかの高校の野球部と、いくつかの高校のレスリング部(当時の全道準優勝校)から熱心に誘われていましたが、全てを断って中学校卒業と同時に出羽海部屋へ入門します。

「東京」という言葉が、キラーワードになったのかもしれませんね。

1957年1月場所、竹沢という四股名で出羽海部屋から初土俵を踏みます。

1960年、夏巡業で北海道に滞在中、先輩力士からいわゆる可愛がりでしょうか、それによりなんと急性虫垂炎と腹膜炎を併発してしまい、結局、50日間に及ぶ入院生活を送ります。このため、後援者から「験直しのために四股名を変えたらどうか」との勧めを受け、9月場所から「北の冨士」と改名します。

1963年11月場所では十両で史上3人目の15戦全勝優勝を達成します。

1970年1月場所を再び13勝2敗で連覇を達成し、ようやく念願の横綱へ昇進しました。大関21場所での横綱昇進は、当時の最長記録でした。

1974年7月場所で初日に旭國斗雄、2日目に大受久晃と連敗して体力の限界を感じ、現役を引退します。

ちなみに、同じ年の10月には、長嶋茂雄さんが野球を引退しています。

引退後は、井筒部屋を興したが、1977年に千代の山が没すると、12代九重を襲名することで、自らの井筒部屋と合同させる形で九重部屋を継承しました。

その後、先代から引き継いだ千代の富士を第58代横綱に育て上げ、昭和の大横綱として大成させます。

千代の富士は北の富士の指導について「親方はあまりガミガミ言わないが、ここぞというとこにチクッと何か言って、こっちの気持ちをくすぐったり、反発心を起こさせる。やる気を起こさせるコツをよく知っている。後は見て見ないふりをする」

人を育てるのが、うまいのでしょうね。

輪島さんは金遣いが荒かったそうですが、北の富士は、横綱時代に、不眠症で休場したにも関わらず、ハワイに旅行へ行ってしまい、協会から大目玉をくらったとか!

現役当時から栃王山と名古屋で「月世界」を共同経営(現在はありません)

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北の富士勝昭の嫁や家族は?離婚して孫?

40歳を過ぎて、銀座のホステスさんだった人と再婚していますが、竹澤貴子という方のようです。

お子さんもいらっしゃるようですが、詳しいことはわかりませんでした。

まとめ

子供のころなどは、お父さんの事業の失敗で夜逃げをしたりなど、ご苦労があったようですが、横綱ですよ。

ダンディーな方です。

申し訳ないですが、今の亜の方々には、マネすることなどできないでしょう。

相撲は神事で、一攫千金を当てるレスリングではありません。

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